(神田香織へのメッセージ)
「私の本を身近に感じてくださって、どうもありがとう。このテキストが舞台のうえで語られるのはとてもうれしい」
スベトラーナ・アレクシエービッチ 2002.5.11
1948年ウクライナ生まれ.国立ベラルーシ大学卒業後、ジャーナリストの道を歩む.200万部を重ねた「戦争は女の顔をしていない」をはじめ、「最後の生き証人たち」「亜鉛の少年たち」(邦訳『アフガン帰還兵の証言』日本経済新聞社)など、戦争の英雄神話をうちこわす著作を発表し、絶えず権力からの抑圧や干渉を受けてきた.本書も、大統領の圧力でベラルーシでの出版は中止されている。1996年、「文学における勇気と威厳」をたたえて、スウェーデン・ペンクラブ賞を受賞.現在、ベラルーシのミンスク在住.
2003.10.17 名古屋にて対談
2003.10.15 松本
「チェルノブイリは政治的、医学的な言葉では表すことができない、私はそれを言葉にしようとして、市井の名も無き人々にインタビューをしてきました。
 
その時に探し当てたと同じ言葉が神田さんの講談にはありました。聴衆が夢中になって聴いていて、特に若い高校生が大勢とても熱心に耳を傾けていたのは、素晴らしかった。人の名前や地名で内容についてはほとんど理解することができました。終わりの方ではすすり泣く声が聞こえて、私もとても感銘を受けました。」
2003.10.15 松本にて共演
「チェルノブイリの祈り」
著者:スベトラーナ・アレクシエービッチ、訳:松本妙子
発行:岩波書店

この本はふつうの小説や詩歌のような文学ではなく、いわゆる科学技術的なものではもちろんありません。表紙のカバ−にカソリックの聖像画(後述)が美しく、その絵が象徴するかのようにこの本は言わば悲嘆文学であり、日本語の訳文が適切な仕上がりとなっています。
 冒頭に、チェルノブイリ事故の当時日本でも新聞にもテレビにも載った犠牲者の消防士の妻の嘆きと恨みに満ちた一万字を越える長文の告白があり、そのあとに「自分自身へのインタビュ−」と副題をつけた原著者の話しが置かれています。「10年がすぎました。(中略)3年間あちこちまわり、いろいろ話を聞きました。原発の従業員、科学者、元党官僚、医学者、兵士、移住者、サマショール(強制疎開の対象となった村に自分の一存で帰ってきて住んでいる人)・・・。(中略)ベラル−シの歴史は苦悩の歴史です。
(中略)訪れては、語り合い、記録しました。」

第一章は、精神科医、サマショ−ル、ある父親、7人のサマショ−ル、サマショ−ル、ある隣人、母と娘、キルギス出身の女性、男性から。兵士たちの合唱(十数人の元兵士から)。

第二章は、母親、国立ゴメリ大学講師、事故処理業者、3人の猟師、女性、映画カメラマン、農村の准医師、夫妻の教師、ジャ−ナリスト、共和国連盟副理事長から。人々の合唱(十数人の男女から)。

第三章は、移住者、化学技師、科学アカデミ−核エネルギ−研究所元主任、環境保護監督官、歴史家、上記研究所元実験室長、農村の教師、事故処理業者、カメラマン、母親、舞台監督、党地区委員会元第一書記、男性、ジャ−ナリスト、上記研究所元所長、女性委員会代表から。子供たちの合唱(十数人の子供から)。

孤独な人間の声(事故処理業者の妻から)

巻末のエピロ−グの前に、「事故に関する歴史的情報」が原著者によって書かれています。内容からみて原著者が外国人の読者のために用意したものでと思われます。本文とは別物ですが、ベラルーシでチェルノブイリ事故がどのように認識されているかを理解する上で役にたつかと思いますので、悲嘆文学であるこの本の紹介の前提となる最小限のことを抜粋しておきます。
「ベラル−シの領土には原子力発電所は一基もない。旧ソ連領にある稼働中の原発で、ベラル−シの国境に地理的にもっとも近いRBMK型原子炉を持つ原発は、北にイグナリ−ナ原発、東にスモレンスク原発、南にチェルノブイリ原発である。」、
「人口1000万人の小国ベラル−シにとって事故は国民的な惨禍となった。大祖国戦争(1941−45)のとき、ファシストのドイツはベラル−シの619の村を住民とともに焼き払った。チェルノブイリのあと、わが国は485の村や町を失ってしまった。
(後略)」

 vあとがきによると、この本は1997年に出版されて以来すでに多くの賞を得ているそうです。ロシアの「大勝利賞」やドイツの「最優秀政治書籍賞」などである。前述の表紙カバーの絵はウクライナのキエフにあるペチュルスカヤ大修道院のイコン(聖像画)で、日本語版のために選んだと訳者のご好意で教えて頂きました。

松本妙子(翻訳者)
1973年早稲田大学第一文学部露文科卒業.日本交通公社、日ロ合弁企業、ニコライ学院講師を経て、現在は翻訳業.

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