地域に残るお話の掘り起こし

語りと音曲で織りなす世界

「安寿と厨子王物語」


 全国どこでもその土地に伝わる伝説や民話があります。ここ福島県内には森鴎外の「山椒太夫」でおなじみの「安寿と厨子王」のゆかりの地がいたるところにございます。いわき市内には彼らが住んでいたとされる住吉城跡があり、お隣の広野町には乳母の竹女伝説が、毎年夏に町民の皆さんのお芝居で再現されております。また田村郡三春町は安寿と厨子王の祖母の出身地といわれ、母は信夫、今の福島市の出身と伝えられております。

九百年も前の平安時代のお話ですから真偽のほどは分かりませんが、これらゆかりの地や言い伝えをもとに掘り起こし、自分たちの住む地域の新しい伝説として語り継いでゆきたいと、地元の皆様と共に制作いたしました。

 福島県発の新しい物語として多くの県民の皆様にぜひ、お聞きいただきたいと考えております。


あらすじ

 岩城判官・平政氏は平将門の子孫で、康保4年(967)に賊将か朝廷にそむいたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜つていわきに着任してきました。政氏には2人の子があり、姉は家臣・村岡重額の妻となり、弟の政道は父の後を継ぎました。この政道が、安寿と厨子王の父なのです。 岩城判官は、一代、二代と平和に暮らしていましたか、ある時、政道が、小山田での桜狩りの帰りに義兄である家臣・村岡重頼に殻されてしまいます。安寿と厨子王の不幸はこのときから始まります。政道が暗殺されてから、重頼が勢いを持ち、やがて安寿と厨子王は母と乳母、下臣らと住吉城を追われて長い旅路に着くことになります。まずたどり着いたのが、岩代国の信夫庄でした。ここは安寿らの母の故郷で、今の福島市にあたります。そして長和6年(1017)、朝廷の指示を願い岩城判官家の再興を計るために京都を目指し、ますば越後の国へと向かいました。森鴎外の小説「山椒太夫」はここから始まっています。「山椒太夫」は江戸時代に流行した「説教」のひとつで、寛永16年(1639)に刊行された「五説教」の中の「さんせう太夫」を原点として書かれています。 

信夫庄を旅立ち20日あまりの苦しい旅路の末、ようやく直江津(新潟県)に到着しました。が、安寿と厨子王たちはこの地で人買いに騙されてしまうのです…。

 母と乳母は佐渡へ、安寿と厨子王は丹後の国(京都府北部)の山椒太夫へと売られてゆきました。安寿は海で潮を汲み、厨子王は山で柴を刈り、奴隷として苦しい毎日を過ごすのです。

 物語の中に、2人を救う地蔵尊像の話か出てきます。安寿と厨子王が山椒太夫の屋敷で仕置きを受け、やけどを負ったときのこと。母から預かった家宝の地蔵尊像に祈りを捧げると、不思議や疲みは消えたそうです。この話の由来を持つ地蔵尊像が、いわき市の住吉山通照院に保存されています。

 寛仁4年(1020)、安寿は厨子王を諭して山椒太夫の屋敷を脱出させ、自らは入水自殺を遂げます。厨子王は追っ手を逃れ、橋立の延命寺に逃げ込みます。そして親智和尚の計らいで京都に入り、閑院右大臣.藤原公季に数われ文武両道に励みました。 治安3年(1023)に平政隆と命名された厨子王は、3000余人の兵を引き連れて奥州を目指し、塩谷城(いわき市東田町)において村岡重頼を征伐し、長年の宿願を果たしました。京都に帰つた政隆は、朝廷より丹後の国守に任命され、奴隷を解放し、人身の売買を禁し、善政に励みました。一方、母を探して佐渡に渡り、盲目の母との再会を果たしたのてす。

 老後の政隆は、家督を嫡男の民部大輔政保に譲って岩城に帰り、総本家にあたる相馬家繁栄の地に御所を設け、その地で余生を送ったといわれています。

全国 安寿と厨子王のお話ネットワーク


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