毎日のテレビや新聞のニュースからみえてくるのは、思わず憂えてしまう世の中のすがた。「昔は良かった…」なんて言葉が、思わずロをついて出てくることも多いのではないでしょうか。では、”昔”は何が、どんなふうに良かったのでしょう。良かったその部分を、”今”に活かすことは出来ないでしょうか?今回は、伝統芸能『講談』で活躍中の女流講談師・神田香織さんにインタビユーしながら"ライブリー世代〃が"若い世代〃のために出来ることを探ってみました。

神田香織さんに聞く、
講談の魅力 

神田香織プロフィール福島県いわき市出身。昭和55年神田山陽門下生となり、昭和59年ニツ目昇進。平成元年真打ち昇進。平成4年夏、ひとり芝居の要素を取り入れ「新釈ロマンホラー・四谷怪談」を発表、講談の新境地を次々に拓いている。日本演芸家連合加盟。講談協会会員。

古いようで新しい、講談は生き方の見本市

 高齢の方たちは、ラジオで落語や浪曲、そして講談を聞きながら育ってきていらっしゃいます。それらはいわば人生の鏡で、百違うものを聞いたら百通り自分の教訓として生き方の引き出しにすることができたのです。例えば仕事上の悩みにぶつかっても「こんなとき家康や家光なんかはこうしたんだ…」と、対処の仕方をその中から引き出して、なんとか乗り越えることができたわけです。昨年くらいから、子どもの凶悪犯罪が目立つようになってきています。それらの報道に際して私が思うのは、子どもたちが今本当に必要としているのは、かつて講談などで語られたような〃生き方の見本"なのではないかな、ということです。子どもたちは大変恵まれているようですけれど、当の本人たちは豊かさをあまり実感していないし、難しい事にぶつかった時、どう対処していいのか分からない。学校で勉強は教えてくれても、生き方のノウハウは教えてくれませんからね。しかし戦前生まれの方は、「修身」で生きていく上で必要な常識を学ぶこともできました。それを身につけて長いこと生きて来られたのですから、子どもたちの指導者となるべき〃宝"なのではないかと、私は講演などの時にいつも申し上げております。

一家に一つ張り扇、一家に一人、講談師!

 講談は日本の伝統的な話芸の一つで、古くは仏教の教えを広める宗教的な意味もあったそうですが、「太平記読み」つまり南北朝の動乱を描いた軍記を分かりやすく、かつ面白く聞かせたことで、その存在がメジャーになったといわれます。「講釈師見てきたような嘘をつき」「講談師嘘を扇で叩きだし」なんて川柳がありますが、観客に喜んでもらうために、講談師の大先輩方は大いに嘘をつきまくったんだと思うと、何やら親しみさえ感じてしまいますね。
ちなみに講談師は明治以降の呼び方で、それ以前は講釈師というふうに呼んでいたようです。ところで講談には張り扇という小道具がありますが、これはなかなか便利です。「ポポン、ポ、ポポン」と楽しくリズムを取りながら話しかけられたら怒る人はいません。テレビばっかり見て何を言っても振り返ってくれない、そんな子どもの後ろの方で、ポーン!と張り扇を鳴らしますとビックリして振り返りますから、その瞬間をつかまえてにこやかに会話することもできるわけです。

伝えていきたい、生きるために大切なパワーと誇り

 講談とは昔からある物語にしろ、これから作られる物語にしろ、一定の筋書きを活かす話芸である、と今日では解釈されています。私は十八年前に神田山陽師匠の門下に入り、三年間の修行を経てニツ目、プロになりましたが、最初は講談のリズムがおもしろい! と、ジャズやロックにのせて講談をやったりしていました。でもそのうち、やはり講談はお話の中身で聞いていただくものだから…と思いはじめて、広島で被爆された中沢啓治さんの自伝的マンガ『はだしのゲン』をテーマとした講談を十一年前からやらせていただいています。このマンガは戦争や原爆の悲惨さを強く訴えるものと思われがちですが、実際はゲンという九歳の子どもが.、目の前で身内が亡くなるような強烈な逆境の中でも前向きに生きていく姿を描いた、たくましさの伝わるものなんです。これは今も代表作として全国各地でやらせていただいています。
 それから、地域に根付いた言い伝えなどの中にもいいお話がたくさんあるんですね。ここ福島県には、森鴎外の『山椒太夫』でおなじみの安寿と厨子王ゆかりの地がいたるところにあるんです。いわき市には彼らが住んでいたとされる住吉城跡があり、お隣の広野町には乳母の竹女伝説が、また三春町は祖母の出身地といわれ、母親は福島市渡利にある椿舘(弁天山)の出身といわれています。一昨年、これらゆかりの地や言い伝えを地元のみなさんたちと掘り起こして、『いわき版・安寿と厨子王伝説・平成版』というタイトルでお芝届を構成し、〃立体講談"という形で発表いたしました。その後、大人数のお芝居では移動や費用が大変なので、琵琶と鳴り物だけを加えた三人で、いわきや新潟で何回か講演しています。
 安寿と厨子王たちは逆臣の追手を逃れ、いわきから新潟まで今なら車で三時間程度の道のりを何力月もかけて、わらじを何足も履きかえて旅しました。九百年も前のことですから、真偽のほどははっきりしませんが、若い人たちも自分たちの生まれ育った場所にそんなロマンがあると知ったら、とても誇りをもつんじゃないかと思うんです。
そんなことを今年のお正月に放送されたテレビ番組で県知事にお話しましたところ、後から『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』という本が送られてきました。これをぜひ講談のテーマに…ということなんですね。
内容は、会津藩士を父にもつ少年が、明治維新に際して一方的に朝敵の汚名を着せられた上、下北に移封され、寒さと飢えの生活を強いられながらも、やがて立派な軍人となり日露戦争で大活躍するという自伝的小説です。幼年期の辛酸をなめるような生活の中で彼を支えていたのは、「会津藩士の子である」という誇り、つまりアイデン一ティティーだったんですね。昔のお話には、こういった大切なことがいっぱい詰まっているわけです。最近は絶対大丈夫だと思われていた大手の銀行や証券会社が倒産するなど、予測できないことばかりが続いています。安泰な暮らしをしていてもいつ、どんな災難が降りかかってくるかは誰にも分かりませんよね。それでも何があっても強く生きていけるのは、くだんの柴五郎のように〃誇り"をもつ人間なのではないかと思うのです。これからの若い人たちの誇りを輝かすために、講談を通じて出来ることは、いろいろとありそうな気がしています。

いわきに寄席ができるまで

 私は三年前、東京から実家のあるいわき市に戻ってきまして、自然の豊かさとか、交通の便とか、地元の人の温かさなど、いろんな面で故郷の良さを実感しているところです。地方を拠点にして全国へ講談に出かけるので、〃出稼ぎ講談師"なんて、いわれているんですけれども(笑)。
私とちょうど時を同じくして、落語家の林家とんでん平さんも、子どもさんを環境のいいところで育てたいからと、奥さんの実家のあるいわき市に住まいを移された。そこで「せっかく市内に講談師と落語家がいるんだから、寄席ができたらいいね」なんて話をしていましたら、いわき市の植田にある長崎寿しさんが「店の二階が空いているから使ったら」と言って下さって、今から二年前に定席《うえだ寄席》を設けることができました。定席は、お客さまに定期的に話芸を楽しんでいただいた上で、芸人にとっては修行をする場でもあり、とても大切で有り難いものなんです。
 それからは毎月第二火曜日にとんでん平さんと交代で出ていたんですが、本当に人生は何が起こるか分からないもので、昨年の二月、このお店が火事になってしまったんです。店の御主人は、「もう若くもないし、店をたたんでしまおうか」とおっしゃって、すっかり気落ちしてしまったので
、なんとか励まそうと、寄席を楽しんできた地域の方たちと一緒に『火事見舞い寄席』を開いて、僅かではありますが収益金を寄付させていただきました。それを受けてご夫妻は、「皆さんの気持ちに応えたい-と銀行からお金を借りて店を再建してくださいまして、再び昨年九月から寄席をやらせていただけるようになったのです。
 さらにその後、平にも《谷川瀬寄席》が出来ました。こちらは年に二回の予定ですが、現在いわき市は一地方都市にニカ所の定席があるという、恐らく全国でも例のない状態となっています。先の『安寿と厨子王』のお話の掘り起こしにしましても、いわき市民の文化面のパワーには少々驚きを感じてしまうほどです。県内各地の方もいわきは磐越自動車道を利用すればすぐですから、ぜひ寄席を見にきていただきたいと思います。また、お呼びいただけば県内各地で講談や講演をさせていただいておりますので、機会がありましたら足をお運びください。講談は伝統文化ではありますが、決して古くさいものではありません。私自身も〃立体講談"など、様々な手法で講談の可能性を広げながら、これからも地方から文化をどんどん発信していきたいと思います。(談)